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オホーツク文化(ステラー海牛を巡る話4)そして [海牛]

ステラー海牛の話が割と好評だったので、また書きたいのではありますが、
少し道を逸れて「オホーツク人」の話を少し書いておきたいと思います。

この話もなかなか知られておらず、
また、私はこの話からステラー海牛の話を知ったものですから。
ただし、私は考古学者ではないので、不確かな点もあります。


 野付崎の海岸

 日本書紀の中に、660年3月に朝廷の命で阿倍比羅夫が北方に向い、
「大河(行程から考えて石狩川?)のそば」で「粛慎(みしはせ)」と 
いう人たちを討ったという話があるそうです
(ちなみに、阿倍仲麻呂は 
阿倍比羅夫の甥っ子とかそんなくらいの関係らしい)。

 この集団、残された人骨からみて、和人ともアイヌとも異なります。
樺太か大陸の人々に近いとされます。
土器や工芸品などの様子から高い
文化性を感じさせます。このオホーツク文化の証拠は、この「北の邪馬台国伝説」に
よるだけではなく、網走の「モヨロ貝塚」をはじめとして百数十の文化跡があり、樺太と
北海道に広く広がっていたと考えられています。
 そして、13世紀頃には突如として歴史の舞台から消えてしまいます。

確かに14世紀から暫く小氷期を迎えるので、北国でもあり、これが影響したことは
ありそうなことですが、詳しい理由はわからないそうです(*)。

ステラー海牛同様、あまり知る人のない謎の「失われた国」なのでした。

アイヌは縄文人の系統で、特徴的な土器で代表される擦文文化の継承者と考えら
れるそうですが、「アイヌ文化」として確立されるのは13世紀を待たなければならない
とのことで、つまりオホーツク人はアイヌの先住民でした。

かつてアイヌが和人に征服あるいは吸収するようにしてその地を奪われたように、
13世紀とそれより少し前、アイヌの人たちがオホーツク人を吸収、征服して行ったのかも
しれません。

ただ、出土品からして、オホーツク沿岸に興ったその文化圏は鯨やアザラシなどの
海獣を食料として成り立っていたとされます。
たぶん「ステラー海牛」も貴重な食料としていたらしいのです。


素人である私の勝手な憶測の域を出ないのではありますが、
もしかすると、
「海牛を食い尽くして滅びたのかもしれない」

なんて想像するのでした。

普通の人の無関心など気にもせず、まだ考古学者さんたちは、なお研究をしているようです。
いつかまた何か発見があるかもしれません。

*:気象変化と道東の海岸

かつて、私はライダーしてまして、道東、道北をバイクで旅行しました。

特に印象的であったのは道東の海岸です。
高低の乏しい土地に海と陸が二重、三重に重なり、他にはない風景でした。

多分、本州でも山の中には自然が多く残されていると思います。
ただ、崖でもない海岸線に手付かずの自然を感じさせる場所はほとんどないの
ではないでしょうか。いま、どうなっているかは知りません。
ただ、思うのは、そのような平らな水辺は、気象変化に伴う界面の昇降に大きく
影響されたことと思います。


雨が降って寒く、雨具に身を包んでも震えた

サロマ湖あたりに海牛たちが群なす入り江があったのでしょうか?

参考としたHP
http://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20021109/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%AF%E6%96%87%E5%8C%96

http://www.museum.hakodate.hokkaido.jp/collection/minzoku/06.html

http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition22/shiretoko.html


ステラー海牛を巡る物語(3) ExploreNorthの記事後半 [海牛]

ExploreNorthという北極圏情報HPの記事の後半を紹介したい。
http://www.explorenorth.com/library/yafeatures/bl-seacow.htm

著者はMurray Lundberg

 後にベーリング島と名付けられる島で、ステラーと疲弊した生存者達が過ごした10ヶ月の間すごし、ステラーは、海牛の行動についての相当な情報を集めることができたし、同時に広範囲な解剖学的な特徴を記録した。(中略)

 海牛の肉(それは最もしばしば子牛の肉に例えられた)は、他のどんな食肉より長く新鮮なままで、ロシアの水夫やハンターにとても珍重された。

その脂身はスウィートアーモンドオイルのような風味がすると評された。

 最初の海牛が殺されたのは、ベーリングの乗組員は1742年8月に島から脱出するほんの6週間前なのだが、難破した聖ピョートル号の残骸から新しいボートを建造するまでの間、その肉が彼らの力の源となった。



そして、彼らは島を離れた後、毛皮ハンター達に島の途方も無く豪勢な話として、この肉と脂について語った。
ハンターはその海域に集まり、1768年には、探検家マーティン・サウアーが、最後に知られていた海牛の死を雑誌に記した。
今、マナティーとジュゴンが、ステラー海牛の運命を辿りかねないとして、世界的な保全活動を受けている。

しかしながら、まだ海牛は生き延びている可能性はある。
1768年、つまり一般には海牛が絶滅したとされた年以降にも、ロシアの猟場から離れた場所で、小さなコロニーが残存したかもしれないことを示唆する報告は散発していた。
1800年代中期には、そのような報告書は珍しくはなかった。またごく最近の1962年、ロシアの捕鯨者の乗組員は、アナドゥイル湾の浜辺で餌を食む、海牛に似た6頭の動物を見たことを報告している。
1977年には、カムチャツカの漁師がこの海牛の記述と一致する漂流する動物に実際に触ったと報告している。
しかし、それらの報告書は単なる噂に過ぎないと思わざるを得ず、今に至るまで、新たな「北の神話」はまだ聞かれることはない。


ステラー海牛を巡る話(2) ExploreNorthの記事(前編) [海牛]

【前置き】
本日は冷え込み厳しく、身体を動かす元気が足りなかったので、
ごろごろしながら、ステラーのことを調べた。
仕事もしなくちゃいけないのに、困ったことではあるが。

あらためて見てみると、英文のホームページにずいぶんいろいろ書いてある。
ウィキペディアをはじめとして、著作権の問題のなさそうなページも多く、紹介もできそうだ。

とりあえず、ExploreNorthという北極圏情報HPの記事を紹介したい。
広告を受け、ニュースを流すという趣旨だし、著作権の警告がないので紹介していいと思う。

http://www.explorenorth.com/library/yafeatures/bl-seacow.htm

Murray Lundberg (ミューレイ・リンドバーグ?)というカナダの歴史家・ガイド・作家・写真家 ・・の人の記事である(有名な人なのかな?素人に毛の生えたような人かな?何れにしろ、 ステラー海牛好きでありそうだから、尊敬すべき人物と思う)。
一部、くどいところははしょったけど、おおよそ和訳をそのまま載せたい。
ここには、ステラーが乗り、ステラー海牛絶滅のきっかけを作った聖ピョートル号の遭難の 話が書かれている。それに、ステラー自身によるステラー海牛の生態についての記述も 引用されている。
とりあえず、そのあたりを前編として書いてみる。
あ、それと、この記述に基づいて、私もこの愛すべき動物の絵を描いて見た。
イメージ違うかな~。

【本論】
The Steller's Sea Cow
ステラ海牛
Murray Lundberg

 1741年11月はじめにカムチャツカの沖合で難破したヴィトゥス・ベーリングの船、聖ピョートル号 の乗組員にとって、巨大で、容易に捕獲できる海牛は、天の恵みだった。
しかし、その後の30年あまりの内に、かれらの同胞が、この海牛を狩り、絶滅へと追いやった。
 ステラー海牛は、数少ない冷水域のSirenia類、すなわちマナティーやジュゴンの仲間の最大種であった。 それらはクジラまたはアシカのように見えるが、象とハイラックスが最も近い種類であって、海草(sea grasses)(ステラー海牛の場合は主にケルプ)を常食とする数少ない水生の草食性の哺乳動物だ。
 歴史的には、およそ1500―2000頭のHydrodamalis gigas(「巨大なアザラシ」の意)としてコマンドル諸島に集中して、アラスカの海岸およびロシアの極東の沖合いの浅い海域に住んでいた。
 それらはアリュート(Aleut)とエスキモー(Eskimos)という両方の狩猟巧者からのある狩猟圧に確かにさらされていたけれど、個体数は恐らく安定してた。

 ゲオルグ・ヴィルヘルム・ステラー(ベーリングの遠征中の博物学者および医師)は、最初にして最良の海牛の記録を遺した。

 海牛体長およそ28フィート(8.5m)で、重さ7-8トンであった。
 ちょうど海面下に漂い、ひっくり返されたボートとしばしば見間違えられた。
 しっかりした骨格で、それらは大きな体央部と不釣り合いに小さな頭および大きく平らで切れ込みのある一対の末尾をしていた。
 しわのある黒い表皮は、厚さ約1インチで、非常に丈夫で、厚い4~9インチの脂肪層と共に、氷と岩との摩擦や寒さからの保護をした。
 しかし、それもロシアの武器からの十分な防御とはならず、モリかライフル銃で撃たれた5頭の海牛のうちの1頭が捕獲され、大多数は単に逃げ、それらの傷がもとで海上で死んだ。
 外耳部はおよそ豆ほどの大きさではあるものの、内耳は非常に大きく、優れた聴力を持っていたと想像できるが、食事中の海牛はボートさえ完全に無視した。

 ステラーは時々海牛にあたかもそれらが家畜かのように記述した:
 これらの動物は、家畜のように群をなし海で暮らしていた。
 海岸に子供を寄せ集めてオスメスはともに行動した。
 食べること以外何も考えていなかった。 
 背中半分はいつも海上に出ていた。
 それらは陸生動物と同じ方法でつまり、食べながら、ゆっくり前に移動した。
 それらは足を置いた岩から海草を裂き、休むことなくそれを噛 む
 ... 食べている間、それらは、牛のように頭と首を移動させる。
 数分の経過後、水から頭を引き上げて、馬のようにしきりに鼻を鳴らす音をさせて
 新鮮な空気を呼吸した。

【後書き】
 この記事の後半はまた少し後に書こうと思う。
 この記事だけからは、ベーリングと船員達とステラーとの関係(実は不仲だった)は見えない。

 


ステラー海牛を巡る物語(1) [海牛]

ブログ世界をさまようこと2ヶ月あまり、肩の力も抜けて、好きなことを書けるようになってきた。

ということで、本日は「ステラー海牛」のことを書こう。

とは言え、ステラー海牛の存在を知っている人は少ないと思う。
まあ、そもそも既に存在していない。
発見後、27年ほどで食い尽くされたらしい。

ステラー海牛は18世紀末に絶滅した海生哺乳類である。


間違っても「うみうし」ではない。「かいぎゅう」。
英名はSteller’s sea cowである。そのまんま。 
ジュゴンやマナティーの仲間であって、多分その姿はそれらに似る。
ただし、ずいぶん大きい。 体長7mあるいは9m?。ジュゴンの2~3倍。

「ステラーの海牛」という名前は発見者であり、博物学者ステラーによる
最初にオホーツク海を見た?西洋人だとか?(この人も興味あるのでまた
「巡る話」として書かなければと思っている)。

そして、この海牛を狩っていたのが「オホーツク人」。
幻の「北の邪馬台国」といえる「オホーツク文化」の担い手である。
これもまた、「~巡る話」。

さて、このように書くと、これらの話は私の考えたフィクションかと
疑われるかもしれない。だって聞いたことのない話ばっかりかもしれない。

調べる手間を省くべく、少し関連URLを示しておきます。
もちろん、このあと、もう少し詳しく書きますけどね。
まだよくわからないことも多くて、少し調べながら書こうと思ってます。

これら一連のステラー海牛を巡る話はどうも知らない人が多くて、
お知らせしたい話なのだ。

ステラー海牛については、ジュゴン関係のページに出てくる。
http://www.yanbaru.ne.jp/~dugong/marshslide/marshslide.html


我が家のジュゴン人形と仲間たち

ステラー (Georg Wilhelm Steller)については和文のページはないが、
wikipediaなんかに見てとれる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Georg_Steller

オホーツク文化の話はたとえば、下記の北海道新聞のページなどに
http://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20021109/

それと手元にあるわずかな本は「太古の北海道」。

太古の北海道―化石博物館の楽しみ

太古の北海道―化石博物館の楽しみ

  • 作者: 木村 方一
  • 出版社/メーカー: 北海道新聞社
  • 発売日: 1999/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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